あれから15年。
1995年1月17日午前5時46分52秒、最大震度7、死者約6,500人・・・。
あの阪神・淡路大震災から15年目を迎えました。
ボランティア、コミュニティFM、建築基準法・・・いろいろなものにも影響を与えたこの地震に遭われた皆様は、いったいどんなお気持ちで今朝を迎えられたのでしょうか。
今年もまた阪神・淡路大震災関連のコピペを見つけました。
その1。
1995年、阪神大震災のときのこと
兵庫の富士通テン主力工場も壊滅的な被害を受けていた。
操業をいつから始めるか目途など立つはずもない。
それどころか、まだ鎮火していない地域もある状態。
震災から1日たっても消息がつかめない従業員がいて、
社員たちは連絡と情報収集に追われていた。
そこに、爆音をとどろかせて、ヘリコプターがやってきた。
トヨタのヘリコプターである。
援助物資を持ってきたのかと思えばそうではなく、
工場の人間を動員してカーナビの在庫をヘリに運び込めなどと命令をするのであった。
工場長は激しく抗議したのだが、トヨタの社員は効く耳を持たない。
富士通テンの社員はあまりの非常さに憤り、涙を流しながら在庫を積み込んだそうだ。
それ以来、富士通テンは、地震のたびに義捐金をいち早く送るようになった。
トヨタの車は絶対に買わない。
その2。
こんな経験あるよ。
うちの近所に山○系の事務所があるんだが、阪神大震災が起こって数時間後、近くの
ディスカウントストアにて買い物してたところ、大勢のヤクザ屋さんがやってきて、
店の店長や店員と共に品物ほとんどを外に運び始めた。
なんとなく理由がわかったおれは、ご近所だけに顔見知りな事もあって搬出、積み込み作業を
手伝ったわけだが、なにやら人手が足りなくて困ってたみたいで、バイト代は恐ろしい金額だったよ。
近くの薬局からもいろんな物を搬出して実質5時間程度のバイトだったが、作業の指示をしてた
人から適当に財布から抜き取った札束を渡され、
「本当に助かりました。ご苦労さまでした。」
と頭を下げられたものの、軽く数えたところ15万くらいあったのでびっくりして断ったら、
「いやいや、受け取って頂かないと兄貴に怒られますんで…」
と言われ、渋々受け取ったが、結局もらったのは16万。
で、話はそれるが、実はその兄貴と言われる人物、当日その場にはいなかったものの、おれとは車関係で繋がりがあり、
おれはレガシィ、その人はインプレッサを所有してる。
当然、会うと車の話で持ちきりになるわけだが、以前ある高価なパーツ(8万くらい)
を欲しがっていたのを思いだし、もらいすぎたバイト代で勝手に注文。
お返しの意味を含めて取り付けまでやってあげたら喜んでたよ。
話はそれたけど、ヤクザ屋さんが被災地に物資を送ったのは本当の話。
山○系の本部が関西だからってのもあるんだろうけど、ニュースにもなったし当時被災地の方々から
お礼の手紙なんかも届いてたみたいだから間違いないんじゃないかな。
その3。
今、ハイチで大震災があって大変なことになってるじゃん
日本でも前に阪神大震災ってのがあったよね
で、震災当時神戸でパン屋してた友人の話だが
店も心配だったけど、住んでた家が半壊状態で
おばあちゃんの世話や片づけで店まで
手が回らなかったらしい
三日後店に行ってみると奇跡的に壊れて無かったけど
ドアが開けられ中の商品がほとんど無くなってた・・・・
落胆してレジに行ってみるとそこには小さな箱が置いてあり
中にお金が入れてあったんだって
感動した友人はそのお金3万円位を被災者に
使って貰おうと募金したんだw
その4。
1995年1月16日に戻りたい。
当時21の私と倫子はその日ちょっとしたことで喧嘩をしてしまった。
明らかに私が悪い理由で。
普段なら隣同士で寝るのにこの日はひとつの部屋で少し離れて寝た。
17日の朝、大きな揺れがあった。あまりに大きな揺れにあわてている間に
すごい音と共に屋根などが崩れてきた。
運良く私も倫子も無事だった。しかしお互いを確認するのは声だけだった。
二人の間には大きな瓦礫の壁があった。
私は窓の近い側だったので、隣近所の方が瓦礫を少しどけてくれて、自力で出ることができた。
私は倫子を助けるために近所の方と合わせて4人で瓦礫をどけようと必死だった。
倫子は、「真っ暗で怖いけど、私は大丈夫だから」と叫んでいた。
1時間か2時間か、時計もなく分からなかったが、ある程度作業が進んだ。
これなら助かると思った。
しかしそのとき周りの人が「隣の家から火の手が上がっている」と言った。
隣の家はこちらに傾いていた。
危険だと周りは言った。
皆、ピッチを上げて作業をした。しかしそのとき、隣の家が崩れてきた。
私も周りも、その場から反射的に離れた。そう、見捨ててしまった。
どのくらいその場にいたのか分からない。ずっとその場にへたり込んで座っていた。
「消防はどうして来てくれなかったんだ」「神はどうしてこのようなことをするのか」
「瓦礫をどけはじめたときにもっとうまくやっていれば、助かったんじゃないのか」
「見捨ててしまった・・・・・・・・・」「どうして自分も死ななかったのか」
こんな言葉が頭をずっとめぐっていた。
周りは「しょうがなかったんだ」と言った。気に病むな・・・と、、、。
そんなこと、できるはずがないことは周りも分かっていただろう。
私はその言葉を聞いてから、ずっと泣いていた。
後日、瓦礫の山からともこの骨だけが見つかった。
たった1.5メートルの距離の差だった。
たった1.5メートルの距離の差が「1番大切な人」を失う距離だった。
16日に喧嘩したことが、素直でなかった私が、
最も失ってはならない「大切な人」を失う結果にしたのだ。
喧嘩をしていなければ、二人とも助かったかもしれない。
そうでなかったとしても、倫子をひとりにすることはなかった。
そして、見捨てることも・・・・。
私は1995年1月16日に戻りたい。そして君と一緒にいたい。
阪神大震災
経験をしていないとっては分からないことだと思う。
しかしそれはしょうがないことだとも思う。
ただ、これから1月17日に阪神大震災の話題が出たときに
いまさら・・・、とは言ってほしくない。
そういったことがあったことを知っておいてほしい。
そして今恋愛をしている人に。
あなたは大切な人を手放さないで下さい。
今すぐにでも謝れることなら、すぐに謝ってください。
後から後悔しても、すべて戻ってこないのですから。
その5。
あの時、私は東京から引っ越してきたばかりの10才でした
父親と兄弟は地元の親戚の家に泊まりに行き、
母は祖母が急に容態が悪くなって実家の東京に戻っていたんです。
私は具合が悪くて家に独りぼっちでした。
地震が発生。家が物凄く揺れたのを感じてなんかぶつかったのを感じ
て意識が亡くなりました。
(後日、父・兄弟共々親戚と一緒に亡くなった事が分かりました。)
気付いたら外が見えます。だけど、一歩も動けませんでした。
私は、生き埋め状態になってたんです。
「誰か助けて!」と叫んでも、だれも見向きもしないで。
夜になって1人で凄く寒くて、死んじゃう‥と思ってたら
隣に住んでたFちゃんが目の前に居ました。Fちゃんはなんとか私を助けようと
色々としましたが、結局びくともしなくて側に居てくれました。
いったん戻ってた近所の皆はFちゃんをみて「避難所へいけ」と言ったけど
誰1人として私のコトを見ようとしなかった。
Fちゃんが持ってた非常食と水を少しずつ分け合ってくれながら
救助が来るのを待ってました。
しばらくして、迷彩服の自衛隊(?)の人が数名来て
家の残骸を手作業で3、4時間くらいかけて退かして助けてくれました。
安心したのか分からなかったけど
泣き出した私を抱き上げて頭を撫でてくれたあの感触を私は忘れません。
あの後ろ姿は一生忘れません。格好よかった。救世主だった。
今、私は東京で母とFちゃんと暮らしてます。
(Fちゃんの御両親は、亡くなられてました。
たらい回しになってたのを翌年聞いてお養子として一緒に暮らしてます)
あの時、助けてくれた自衛隊?の人たちにもう一度会えたなら
今度こそはっきりと「ありがとう」と言いたい
その6。
俺も叔母が神戸の灘区にいたので
当日の夕方頃現地入りした。
電車は止まってるわタクシーもダメでかなり歩いた。
近付くにつれ恐ろしい光景に・・・・。
火事はまだそんなにはひどくなかったが
それでも所々から煙りが見えました。
叔母は翌日公民館(だったかな?)で無事発見。
ほっとしたが、帰る気にもなれず、
若い奴ら12人でみすぼらしい救出隊結成。
一度火災に包囲されてだめかと思った瞬間があった。
まだ燃えてない家のドアをブチやぶって、
なんとか脱出ルート確保できた。
15人を掘り出す事に成功するも、
その何倍もの人命を救えなかったです。
15歳のお孫さんを失ったおじいさんが
気丈に俺達に礼を言ってくれた。
なんと言っていいか解らなかったです。
その7。
とっくに知られているだろうけど。
阪神大震災の起こったあの朝、自衛隊が到着したのは海外からのレスキューと
同時刻だった、というとんでもない逸話がある。(首相が事態の深刻さに
気づいてGOサインを出すまで、自衛隊はカンカンになって待ち続けていたのだが)
人々が呆然と煙が立ち上る空を見上げた時、そこに最初に到着したのは
ある民間企業のヘリコプターだった。
その日の朝、ある一人の社長が被災地が神戸だと知ったとき、たった一言。
『…おにぎりを、今すぐ被災地へ』
セブンイレブン、いい気分♪
海外では1月12日16時53分(日本時間13日6時53分)、西インド諸島のハイチ共和国でマグニチュード7.0の大地震が起きました。
被災者は300万人以上、死者は15万人以上になると言われています。
地震はいつ起こるか分かりません。
ただ願わくば、あの惨劇が二度と起こらないよう祈るばかりです。
あの阪神・淡路大震災から15年目を迎えました。
ボランティア、コミュニティFM、建築基準法・・・いろいろなものにも影響を与えたこの地震に遭われた皆様は、いったいどんなお気持ちで今朝を迎えられたのでしょうか。
今年もまた阪神・淡路大震災関連のコピペを見つけました。
その1。
1995年、阪神大震災のときのこと
兵庫の富士通テン主力工場も壊滅的な被害を受けていた。
操業をいつから始めるか目途など立つはずもない。
それどころか、まだ鎮火していない地域もある状態。
震災から1日たっても消息がつかめない従業員がいて、
社員たちは連絡と情報収集に追われていた。
そこに、爆音をとどろかせて、ヘリコプターがやってきた。
トヨタのヘリコプターである。
援助物資を持ってきたのかと思えばそうではなく、
工場の人間を動員してカーナビの在庫をヘリに運び込めなどと命令をするのであった。
工場長は激しく抗議したのだが、トヨタの社員は効く耳を持たない。
富士通テンの社員はあまりの非常さに憤り、涙を流しながら在庫を積み込んだそうだ。
それ以来、富士通テンは、地震のたびに義捐金をいち早く送るようになった。
トヨタの車は絶対に買わない。
その2。
こんな経験あるよ。
うちの近所に山○系の事務所があるんだが、阪神大震災が起こって数時間後、近くの
ディスカウントストアにて買い物してたところ、大勢のヤクザ屋さんがやってきて、
店の店長や店員と共に品物ほとんどを外に運び始めた。
なんとなく理由がわかったおれは、ご近所だけに顔見知りな事もあって搬出、積み込み作業を
手伝ったわけだが、なにやら人手が足りなくて困ってたみたいで、バイト代は恐ろしい金額だったよ。
近くの薬局からもいろんな物を搬出して実質5時間程度のバイトだったが、作業の指示をしてた
人から適当に財布から抜き取った札束を渡され、
「本当に助かりました。ご苦労さまでした。」
と頭を下げられたものの、軽く数えたところ15万くらいあったのでびっくりして断ったら、
「いやいや、受け取って頂かないと兄貴に怒られますんで…」
と言われ、渋々受け取ったが、結局もらったのは16万。
で、話はそれるが、実はその兄貴と言われる人物、当日その場にはいなかったものの、おれとは車関係で繋がりがあり、
おれはレガシィ、その人はインプレッサを所有してる。
当然、会うと車の話で持ちきりになるわけだが、以前ある高価なパーツ(8万くらい)
を欲しがっていたのを思いだし、もらいすぎたバイト代で勝手に注文。
お返しの意味を含めて取り付けまでやってあげたら喜んでたよ。
話はそれたけど、ヤクザ屋さんが被災地に物資を送ったのは本当の話。
山○系の本部が関西だからってのもあるんだろうけど、ニュースにもなったし当時被災地の方々から
お礼の手紙なんかも届いてたみたいだから間違いないんじゃないかな。
その3。
今、ハイチで大震災があって大変なことになってるじゃん
日本でも前に阪神大震災ってのがあったよね
で、震災当時神戸でパン屋してた友人の話だが
店も心配だったけど、住んでた家が半壊状態で
おばあちゃんの世話や片づけで店まで
手が回らなかったらしい
三日後店に行ってみると奇跡的に壊れて無かったけど
ドアが開けられ中の商品がほとんど無くなってた・・・・
落胆してレジに行ってみるとそこには小さな箱が置いてあり
中にお金が入れてあったんだって
感動した友人はそのお金3万円位を被災者に
使って貰おうと募金したんだw
その4。
1995年1月16日に戻りたい。
当時21の私と倫子はその日ちょっとしたことで喧嘩をしてしまった。
明らかに私が悪い理由で。
普段なら隣同士で寝るのにこの日はひとつの部屋で少し離れて寝た。
17日の朝、大きな揺れがあった。あまりに大きな揺れにあわてている間に
すごい音と共に屋根などが崩れてきた。
運良く私も倫子も無事だった。しかしお互いを確認するのは声だけだった。
二人の間には大きな瓦礫の壁があった。
私は窓の近い側だったので、隣近所の方が瓦礫を少しどけてくれて、自力で出ることができた。
私は倫子を助けるために近所の方と合わせて4人で瓦礫をどけようと必死だった。
倫子は、「真っ暗で怖いけど、私は大丈夫だから」と叫んでいた。
1時間か2時間か、時計もなく分からなかったが、ある程度作業が進んだ。
これなら助かると思った。
しかしそのとき周りの人が「隣の家から火の手が上がっている」と言った。
隣の家はこちらに傾いていた。
危険だと周りは言った。
皆、ピッチを上げて作業をした。しかしそのとき、隣の家が崩れてきた。
私も周りも、その場から反射的に離れた。そう、見捨ててしまった。
どのくらいその場にいたのか分からない。ずっとその場にへたり込んで座っていた。
「消防はどうして来てくれなかったんだ」「神はどうしてこのようなことをするのか」
「瓦礫をどけはじめたときにもっとうまくやっていれば、助かったんじゃないのか」
「見捨ててしまった・・・・・・・・・」「どうして自分も死ななかったのか」
こんな言葉が頭をずっとめぐっていた。
周りは「しょうがなかったんだ」と言った。気に病むな・・・と、、、。
そんなこと、できるはずがないことは周りも分かっていただろう。
私はその言葉を聞いてから、ずっと泣いていた。
後日、瓦礫の山からともこの骨だけが見つかった。
たった1.5メートルの距離の差だった。
たった1.5メートルの距離の差が「1番大切な人」を失う距離だった。
16日に喧嘩したことが、素直でなかった私が、
最も失ってはならない「大切な人」を失う結果にしたのだ。
喧嘩をしていなければ、二人とも助かったかもしれない。
そうでなかったとしても、倫子をひとりにすることはなかった。
そして、見捨てることも・・・・。
私は1995年1月16日に戻りたい。そして君と一緒にいたい。
阪神大震災
経験をしていないとっては分からないことだと思う。
しかしそれはしょうがないことだとも思う。
ただ、これから1月17日に阪神大震災の話題が出たときに
いまさら・・・、とは言ってほしくない。
そういったことがあったことを知っておいてほしい。
そして今恋愛をしている人に。
あなたは大切な人を手放さないで下さい。
今すぐにでも謝れることなら、すぐに謝ってください。
後から後悔しても、すべて戻ってこないのですから。
その5。
あの時、私は東京から引っ越してきたばかりの10才でした
父親と兄弟は地元の親戚の家に泊まりに行き、
母は祖母が急に容態が悪くなって実家の東京に戻っていたんです。
私は具合が悪くて家に独りぼっちでした。
地震が発生。家が物凄く揺れたのを感じてなんかぶつかったのを感じ
て意識が亡くなりました。
(後日、父・兄弟共々親戚と一緒に亡くなった事が分かりました。)
気付いたら外が見えます。だけど、一歩も動けませんでした。
私は、生き埋め状態になってたんです。
「誰か助けて!」と叫んでも、だれも見向きもしないで。
夜になって1人で凄く寒くて、死んじゃう‥と思ってたら
隣に住んでたFちゃんが目の前に居ました。Fちゃんはなんとか私を助けようと
色々としましたが、結局びくともしなくて側に居てくれました。
いったん戻ってた近所の皆はFちゃんをみて「避難所へいけ」と言ったけど
誰1人として私のコトを見ようとしなかった。
Fちゃんが持ってた非常食と水を少しずつ分け合ってくれながら
救助が来るのを待ってました。
しばらくして、迷彩服の自衛隊(?)の人が数名来て
家の残骸を手作業で3、4時間くらいかけて退かして助けてくれました。
安心したのか分からなかったけど
泣き出した私を抱き上げて頭を撫でてくれたあの感触を私は忘れません。
あの後ろ姿は一生忘れません。格好よかった。救世主だった。
今、私は東京で母とFちゃんと暮らしてます。
(Fちゃんの御両親は、亡くなられてました。
たらい回しになってたのを翌年聞いてお養子として一緒に暮らしてます)
あの時、助けてくれた自衛隊?の人たちにもう一度会えたなら
今度こそはっきりと「ありがとう」と言いたい
その6。
俺も叔母が神戸の灘区にいたので
当日の夕方頃現地入りした。
電車は止まってるわタクシーもダメでかなり歩いた。
近付くにつれ恐ろしい光景に・・・・。
火事はまだそんなにはひどくなかったが
それでも所々から煙りが見えました。
叔母は翌日公民館(だったかな?)で無事発見。
ほっとしたが、帰る気にもなれず、
若い奴ら12人でみすぼらしい救出隊結成。
一度火災に包囲されてだめかと思った瞬間があった。
まだ燃えてない家のドアをブチやぶって、
なんとか脱出ルート確保できた。
15人を掘り出す事に成功するも、
その何倍もの人命を救えなかったです。
15歳のお孫さんを失ったおじいさんが
気丈に俺達に礼を言ってくれた。
なんと言っていいか解らなかったです。
その7。
とっくに知られているだろうけど。
阪神大震災の起こったあの朝、自衛隊が到着したのは海外からのレスキューと
同時刻だった、というとんでもない逸話がある。(首相が事態の深刻さに
気づいてGOサインを出すまで、自衛隊はカンカンになって待ち続けていたのだが)
人々が呆然と煙が立ち上る空を見上げた時、そこに最初に到着したのは
ある民間企業のヘリコプターだった。
その日の朝、ある一人の社長が被災地が神戸だと知ったとき、たった一言。
『…おにぎりを、今すぐ被災地へ』
セブンイレブン、いい気分♪
海外では1月12日16時53分(日本時間13日6時53分)、西インド諸島のハイチ共和国でマグニチュード7.0の大地震が起きました。
被災者は300万人以上、死者は15万人以上になると言われています。
地震はいつ起こるか分かりません。
ただ願わくば、あの惨劇が二度と起こらないよう祈るばかりです。










